昭和41年02月27日 朝の御理解



 この頃、私毎日4時になりますと、散歩に出るんです。昨日も丁度1万4000歩、歩かせて頂きました。こういう計るやつを頂ただいて、下げていくんです。こういう今日はちゃんと何歩歩いたと言う事がですねか分かる。昨日は久しぶりに、この矢作、ここは矢作が本村ですが、矢作にこの頃からお宮さんが改築になりまして、綺麗になっておると云う事聞いておりましたから、本当にあの久し振りで山に登らせて貰ました。
 ここのとやまの上なんですよ。村に、矢作の村にも久し振りで御座いましたが、本当に村も変わってしまった様ですね。みんな立派な家ばっかり建っておりますと云う事と同時に、皆さんもご承知でしょう、矢作は大体分限者村でした。もう大きなお屋敷が沢山ありましてね、大きな岩の様な石垣で、屋敷が、立派な屋敷があったんですけれども、その大きな屋敷程荒れております。
 又は荒れ果てております。もう一番上の方なんかはいち番の、まぁいわゆる分限者と言われとった家なんかは、もう塀が壊れてしまいましてから、もう中の植木なんか、立木でも全然手入れがしてないですから伸び放題。かというと、当時はそうでもなかった。まぁいうなら小作をしておられたと言う様な人達の家が、立派な家が建ちましてね、それこそ上に負けてはならんと言った様に、その昔の分限者どんの様な、大きな岩でずうっとその石垣を敷いて、結局は今分限者になっておられる訳なんですから、そう言う風に一つの栄枯盛衰と申しますかね、それを目の当たりに見る様な気が致しました。
 神社に参りますと、色々古い物が御座いますからそれ見せて頂いておりました。(   )絵馬なんかがまだ、そのまま取って御座います。中にずっとやっぱり改築なった、改築から改築になっとりますので、今までのこのずぅっとこの寄付の名が書いて御座います。古くなりますと、それを書き換えていきよんのでしょう、もう、3両2分とか3両、2両、1両、またはその一番の末端の方には1分とか2分とかいう寄付金した人がずうっとその書いてございます。
 相当古いんですね。3両、3両2分といったのもあります。その当時本当に1分か2分かをやっと、まぁ骨が折れて寄付したであろう3両2分の人達、3両もお供えしとる人達は、もう楽にまあしたので御座いましょうけれども、その3両ずつも寄進しておる人達が、あとも骨ともなくなっておると云う事ですね。それは孫子の末まで確かに残りますよね。ああして書き、古うなったら又書き換えて行きますから。けれども、それがその、何々さん家が3両も寄付しちゃるが、もう矢作にはおってはなかつかと云う事になって来るんです。もうよそ行っとられるです。本当に一つの哀れを感じますですね。
 今度また改築になりました、もう人が10万円ならもう5千円でも多せにゃなんと、10万5千円と言う風にしてあるのもありますよ。それでその、やっぱり多い金額から、こうずぅっとその、まぁ立て札がたっております。いうなら競うて、いうなら、お供えをした人達がです、さぁまた何年、何十年後には、どう云う事になるやら分かりません。そういう意味で、これはまあ神社仏閣と言う様な、ひとつの、建立というのは、殆どが先ず寄進勧化で御座います。
 その点、お道の信心は「寄進勧化をしては神は喜ばぬ」という建前なのです。「氏子が真から用いるのは神のひれいじゃがと寄進勧化をしては神が喜ばぬ」ですから、ここでは例えば今椛目でご造営があっておりますけれども、誰がどれだけお供えしたか分からないです。ですから、あれがどう云う事ででけたか、おそらく、まぁ落成になりましても、ご成就になりましても、誰がどれだけしたか分かりません。いうなら、一般的なあれでいうならです、本当によけいした者が馬鹿らしかぁごたる。
 ところがです、本当に神様が喜んで下さり、受けて下さる、神のひれいとしての、それがでけれるおかげを頂いて、教祖の神様が、私はこの頃天竺に親類が出来たから、降る照るの事でも、ちゃんとその、親戚から通知を受ける。今日は雨が降るぞ、お天気が良いぞと。から、まぁ楽だという様な事を言っておられます。私が、もう10何年前頂きました、御理解の中に。「天に倉を建てておけ。
 この世に倉を建てるより、天に倉を建てる。」と言う事を頂きました。皆さん、本当にそう天竺にですね、倉を建てれる様な、おかげを頂かなきゃいかんです。その天に倉を建てれると云う事はですね、例えば、現在椛目でこうして、ご造営がちゃくちゃくと進められておりますがね、そう云う様なご造営の場、そういう一つの、時期というのは、何時もあるものではありませんね。一つ本気で、天の銀行にですねぇ、神様の銀行に、預金しておく様なものですと。
 いわゆる「使うて減らぬ金百両」なんです、例えば皆さんが百円なら百円のお供えをなさったら、その百円が百円の徳になる様なお供えになからなければ、勿論いけないと云う事です。百円をお供えなさったらその百円がそのまま、神様のお帳面にちゃんと上がっておると云う事です。そしてそれが使こうても使こうても、いわゆる「使こうても減らぬ金百両」と言われる様な裏付けのある、おかげを頂かなければなりません。
 そんなら金光様のご信心させて頂いておる者が、色々まあああして御用のご造営ならご造営と言った様な時にです、まぁ沢山お供えさせて頂いた。なら百円よりも一万円、一万円よりも十万、百万と言う様にです。お供えさして頂いたから、そんならそれは神様の、成程帳面には上がっとりましょうけれどもですね、それが「使こうて減らぬ金百万円であり、使こうて減らぬ金百両でなからなければ値打ちがないと云う事です。
 そこで椛目の皆さんが信心の稽古をなさると言う事はです。信心をいよいよ自分のものにさして貰お徳を受けさして貰、力を頂いてです、お徳を。いわゆる百万円なら百万円の、お徳を受けさせて頂くという信心に、ならねばならぬと云う事を、まぁ言う訳です。百万円お供えしたから百万円の徳になるとじゃありませんねぇ。それはお供えの仕方なんです。内容なんです、問題は。誰に見せようと云う事でもない、誰に聞かせようと云う事もない、神様だけがご承知の事。
 しかもそれがです、実意まごころが一杯である、というものでなからなければです、私は「使こうて減らぬ金百両」と云う事になってこない。ね。それはお道の信心を頂いておっても、先代の時には総代でも勤められたり、教会の本当に中心になって御用を頂かれた。その、私は昨日、矢作のお宮さんにお参りさして貰うてから感じたようにです、先代の時にはこういう御用がでけておられるのに、もう二代、三代になったら、影も仏もなくなっておられると。
 あの当時は、大したもんじゃったけれども、この頃はもう本当に、その家屋敷ですら荒れ果ててしもうておると、言った様な結果になっておる人が、いないかというと大有りなんですよ。金光教の信心においても、なるほど寄進勧化をしておる訳じゃありますまい。それを、誰が幾らお供えになったと言う様に、掲示した訳でもないのですけれどもね。誰が幾らお供えしたのか分からん、どういう御用頂いたか分からんと言う様な、その御用であってもです、本当に神様が、それに受け取ったという、神様から受け取りを頂く様な、印とでもいうか。
 本当に神様にお喜び頂けたと言う様なものでなからなければ、駄目と云う事を感じなければ、解らなければいけません。皆さんがお供えをなさっておられます。だからこそあれがああして出来ていきよるのです。ですがそれでは確かにこの裏付けになっていっておると言った様なものを、感じれる様なもんでなからなければいけません。第一不浄が掛ってはなりません。無理があってはなりません。お勤めではいけません。
 真心からのものでなければならん。どうでも一つおかげを頂きましてから天の銀行に預金をしておると。それを信じられる様な、思われる様なおかげになって来なければならんと思うですね。それにはねお金が沢山あるから、というて出来るもんでもないですけれども、お金が沢山あるからでけたというのじゃ詰らん。神様のおかげで、出来たものでなければいけませんね。それには修行の伴のうたものでなからねばいけません。
 私、今朝からそんな事を思わせて頂きましたら、あの三段目のお三方の上、に三段目にお神酒が三本並んでお供えして御座いますでしょう。あそこをずらっと頂くんですよ。一番左の端が「富乃寿」真ん中に「山乃寿」それから一番右の端に、あれは「天福」と書いてあまぶくというのでしょうか、というお酒のお供えがあっとりますね。「富乃寿」ね、「山乃寿」「天福」と。
 椛目の場合、大体おかげ頂いとるですねぇ、お金を沢山持っておるから、沢山お供えするといったこっちゃないです。この人が、あの人が、どうしてこう云う事が出来るだろうかと言う様なのが殆どですね。椛目はまあ大きな、例えば、んならその金持ちさん、信者さんがおんなさるから出来よるじゃろうという人がありますけど、そうじゃないです。椛目はまあだ本当に、いわゆる山の寿です。山と言えば修行と。
 寿と云う事は、まぁ一つの財という意味で頂かなきゃならんでしょう。富の寿というのは、沢山の富をもって、おるという意味でしょう。天福というのは、神様がね、おかげを下さると云う事でしょう。天津風といった意味でしょう。本気で、どうしてもおかげを頂きたいと。もうそれこそ千載一遇、またとこういう事があるやらないやら分からない、そういう時期に信心を頂きおうておった事。
 椛目にご縁を頂いた事ね。それをご縁をご縁としてです、なんとかおかげを頂きたい。どうかしておかげを頂きたい。どうぞ御用をお許し頂きたいという、切実な願いが山になる、いわゆる、修行になる。そこから生みなされて来るところのおかげ、してみると、ただ思いこそは、一生懸命なのだけれども、働きこそ、一生懸命なんだけれども、おかげは神様が下さったもの。
 いわゆる、神様のおかげで御用がでけたもの。私はそういう様な物でなからなければです、次の天福と言う様な、おかげにはなって来ないと思う。ね。いわゆる、神様のおかげで、神様のおかげで、御用が出来ました。神様のおかげで、お供えが出来ます。神様のおかげでこういう、千載一遇の時期に、御用を頂いております。おかげで天の銀行ね、天の銀行に預金ができます、お預けする事が出来ますと。という、私はものでなからなければですね、ならない。
 沢山の財産を持った人が、沢山のお供えを、それがそれがいけないというのではありませんね。けれども、それでは修行も伴わなければ、思いも込められていないものが、いかに沢山の金になり、物になって集まりましてもです、それが孫子の末までも使こうても減らぬ金百両と言った様な事になっていない印をです、私は、お道の中にもそれを感じますし。まして例えば孫子の末までも。
 先祖の、先祖が例えば三両も、このお宮を造る時には、おそ、献納しとるね、という、その積りでお供えしてあったのかも知れませんけれども、そのもう孫の、孫が、子が神も仏もなかごとなったり、子孫が絶えておるであったら、こんな値打ちのない事はないじゃないですか。成程、何時までも残るかもしれませんよ。鳥居なんか、石にちゃんと刻み込んであるから、あの鳥居がある限り、何時までも残るかも知れませんよ。
 しかし、この人は矢作に今おってなか、今どけ行っちゃるじゃろうかと、言った様な事であったらどうなります。金光大神は、「祝いめでたの若松様よ 枝も栄える葉も繁ると言うではないか」と。「金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ。」とね。家繁盛子孫繁盛の道を教えて下さるのですから、その道をいよいよ体得させて貰い、体得させて頂いたものをです。
こうした特別なチャンスを頂いた時にです、それが行の上に現されて、なされていく時に、石の鳥居に、または献納札に書いてもなかろう、刻んでもなかろうけれども、天の銀行にちゃんと控えがしてあると。孫子の末までもです、家繁盛子孫繁盛のおかげの頂ける基礎とか、基とかいうものをです、お互いが作っておかなければならない。ね。これからとても同じ事、金輪際、見栄があってはならん、お勤めじゃ詰らん。
 金額の多少ではありません。思いを込めて、いやいや、その思いをです、本当に、もうその切実な思いが大事なんです。こういう機会にです、何とかして、どうかしておかげを頂きたい、お役に立ちたい。で、それこそお役に立ちたい、立ちたいと願い続けさして貰うて、万事の上にご都合お繰り合わせを頂いて御用が出来た。私が出したのではない、神様がおかげを下さって出来たんだと。
 だから、いうならば、自分のこれからは、減らない、神様のおかげで出来るんだ。その神様のおかげで私はでけるというものであってこそです、初めて子孫繁盛の基になる様な「使こうて減らぬ金百両」と言う様なおかげに、限りない、無尽蔵に。ね。まぁ、どうぞ、その「使こうて減らぬ金百両」と云う事に、これはまた、「冥加が尽きる」と云う事を申しますから。例えば、私は自分で思うとります。
 私は確かに「使こうて減らぬ金百両」のおかげを現在頂いておると思います。無尽蔵に、限りなく頂けておりますから。それを頂けておると云う事はどういうあれかというと、私が必要な事が必要な場合に、必要なだけ集まると云う事実があるからです。だから私はおかげを受けておると思うのです。あるでもなし余るでもなし、必要なものが必要なだけ、ここ例えば十五年間の事を振り返ってみてそれを思うのです。
 確かに「使こうて減らぬ金百両」なんだ。というて、なら私がです、もうなんぼ使うても良かけんでさぁデパートに行ってから、着物でも買うてこう、( ? )でもこう買うてこうと。子供にでもいっちょ、その、美味しい物買うて来て食べようと、と言う様な事を、もし私が、なら致しましたとしましょうか、必ずその冥加が尽きるでしょう。もう、それこそ神様のお下がり、神様の御物としてのです。
 いわゆる、そのへんを甘木の初代なんかは「一円の金を使うでも、神様のお下がりを使う時には、百円の金を使うごたる思いで使こうたと仰る、事、神様事に使う時には、百円の金を使うても、一円の金を使うたぐらいの気持ちだ」とこう言われるよう、もっと厳密に言うたら、もっとそれは違うかもしれませんですね。もっと本当の事かも知れません。ただ分かり易う、そう言われておられただけの事で御座いましょう。
 私もそういう生き方、だからこそ、これが何時までも続けられるおかげが頂けるという自分で確信しております。椛目でです、成程一生懸命おかげを頂きたいと、という願うとる人達がおかげを受けよりますですよ。本当におかげを受けよるです。けれどもです、おかげを受けよるとに便乗してです、神様が本当にその御用に立ちたいというから、御用に立ちたいというから。
 御用に立たせてやりたい為にです、「使こうて減らぬ金百両」の徳を下さろうとする為にです、おかげ下さっておるのにです、例えていうなら、百円なら百円のおかげを頂いたのに、五十円だけはお供えしてから、五十円は自分の事に使うとしたならどう言う風になりましょうか。神様のもの横取りしよる様なもの。人間というものは得てしてです、持ちつけんものを、ちょっと持つと、もうすぐ自分の事に使おうとする。衣装ががよくなる、食べ物が贅沢になる。家も美しゅうしようとする。
 金輪際、これは私が、皆さん、謹んでおかなければならない事は、こう言う様な大変な事が椛目の上に、全体の上に起こっておりますから、そういう働きが皆んなの一人一人の上にあるでしょう。私がここで幾人の方達に、これは申しております様に、ご造営の終わるまでは儲け出そうと思いなさんなち、ご造営のある間は、あんたん方の家にさっさとおかげを頂いてく様に、あんた方の為じゃない。ご造営の為のそれなのだから、それを身に付けようとでも思いなさんなち。 
 ご造営のある間、儲け出す積りでおっちゃならん。神様がおかげを下さると、ちょっとも資金が出来たけんで、さぁ一万円のおかげを頂いたから、千円ぐらい良かろ、二千円ぐらい良かち、自分ごとに使こうちしまう。そう言う様な事ではです、例えばその、なら八千円なら八千円のお供えを致しましてもです、それに、修行の裏付けが出来たとは言えないでしょう。それが天の銀行に、受けて下さる、「使こうて減らぬ金百両。」の基になる筈がありません。
 例えいくら御用がでけても、お供えがでけてもねえ、だから、そう云う事では私はおかげにならん。こう云う所をしっかり心に掛けさせて頂いて、「寄進勧化をさしては、神は喜ばぬ」ですから、それはお道の信心の建前ではある。けれども、椛目にこうした一つの大きな事がなされていきよります。そこでお互いが、こういうチャンスをまた、逃してはならない、またとある事ではないその事にです、本気で真心を打ち込めさして貰、思いを込めさして貰、思いの丈を、私は表現して行く。
 それに、不浄でも掛っちゃ成らん、不浄でも掛っちゃ成らんと云う事をです。この位の事は良かろうと言った様な事でです、不浄を掛けただけが、折角のお供えが、ただお供えをしただけと云う事になってはです、馬鹿らしい話でしょうがねえ、詰らん話です。金光様のご信心だからというてです、成程寄進勧化の例えば私は建前だけれどもです。これだけの事をしたから、それは必ず全部徳になると言う事はありません。
 その証拠にはね、初代が先代が、総代してござった、ああいう、御用も出られて御座ったけれども、矢張り影も本家も、なくなっておるという例は、金光教の信心の中にも、沢山あると云う事を思うてです。本当にこんなに確かに、神様はおかげ下さると、下さりよるとぞと。神様がいよいよ自分の家に、こういうひれいを下さって行きよるとぞ、これを私しごとにども使こうちゃ、相済まんという、そういう一つの修行が伴のうて、「山乃寿」と云うことになる。
富の寿じゃいかん。山乃寿でいかにゃいかん。そこに不思議に影のない、天福のおかげになって来る。天福の徳になって来る。お徳を受けられる、受けるチャンスというものは、そう何時もかつもあるもんじゃぁない。椛目全体の上にです、全体のものが打って一丸になってから、おかげを頂かせて貰うて、お徳を受けさせていただけるこうして機会を頂いておる事をです、油断してはならないと言う事を思うですね。
   どうぞ。